長瀞便り

長瀞便り

山形県は東根市長瀞というところに、青野はあります。ここでは、長瀞地域の情報をお届けします。

長瀞猪子踊り

東根市長瀞の日枝神社例祭が催された九日、恒例の長瀞猪子(しし)踊りが地区内を練り歩き、奉納された。東根一円に春を告げる伝統の祭りとして知られ、市内外から訪れた見物客が厳かな猪子の舞を楽しんだ。

長瀞村開削の祖とされる慈覚大使への感謝を込めて、山寺に奉納したのが始まりと伝えられている猪子踊り。戦時中から二度途絶えたが、一九六八(昭和四十三)年に地区住民が復活させて以来、現在まで保存会(堀江秋平会長)が継承している。踊りは、披露する場所に向いながら踊る「道踊り」や門前での「門始舞(もんじまい)」、男猪子と女猪子が戯れる「狂い」など、緩急に富んだ十二の演目がある。木彫りの親猪子が鎮座する奥山惣一郎さん方を出発し、辻(交差点)ごとに数演目ずつ披露しながら長瀞地区内を回り、神社境内で全演目を踊って締めくくるならわしだ。

快晴に恵まれたこの日は、踊り手は囃子に合わせ汗だくになって舞い、一演目ごとに見物客から拍手が送られた。また練り歩く沿道からは祝儀袋が次々と寄せられ、町中で祭りを盛り上げていた。
(4月10日山形新聞より抜粋)



長長瀞猪子踊りクラブ

長瀞地区の伝統芸能である「猪子踊り」を永く地区の伝統芸能として伝えていくこと、子供達の地区の文化や歴史を大切にする心を育てるために「猪子踊りクラブ」が結成され、長瀞小学校の4~6年生の子供達が保存会の大人の方々から御指導をいただいています。

平成13年3月には、YTSゴジダスの「米田先生が来る」にも出演しました。この日は「猪子踊りクラブ」に入っていない子供も米田アナウンサーと一緒に「道踊り」を習いました。



怪童大童 山文五郎

天明八年(1788)二月十五日、出羽国村山郡長瀞村北の宿、熊野堂前の百姓、武左衛門の子として生まれ、名を文五郎という。 生後一年ニヶ月で拾貫(37.5キロ)少し大げさとしても、いかに大きな赤ん坊であったことかが、うかがわれる。 寛政六年十一月(1794)江戸場所に「張出前頭」としてデビューしたのが当時七才、いまの六才である怪力大童山文五郎であった。 その時の体は、身長三尺九寸七分(120センチ)、体重十九貫(71キロ)、腹三尺六寸(109センチ回り)と錦絵に記されている。 大童山の名はたちまちに話題となり、相撲の人気も高まったことは言うまでもない。

特に絵師の写楽、春央、春山、歌磨、長喜一九等高名な人々が争って大童山を筆にしたことも評判に拍車をかけた一因であり、ちなみに写 楽は謎の浮き世絵師として世界中をさわがせているが、少年力士大童山を四点描いている。



光徳寺雅楽

光徳寺雅楽は、長瀞光徳寺に伝わる雅楽で三管(竜笛・ヒチリキ・笙)、三鼓(大太鼓・鉦鼓・渇鼓)をもって合奏する定型の室内音楽です。文献によれば雅楽とは、本来は「雅正の楽」という意味で、唐代には俗楽、宴楽、に対してもっぱら宗廟や孔子廟に用いる祭祀の楽を指していた。

光徳寺雅楽を見てみると竜笛5、ヒチリキ4、笙2、大太鼓1、鉦鼓1、渇鼓1、があり演目は現在演奏されているものに越天楽、揆頭、岩戸楽の三曲があります。代々、檀家の子弟に受け継がれて、お寺の儀式や地域での催しで演奏されてきました。現在は広く若手の人々の参加を得て、長瀞地区の伝統芸能として伝えていきたいと考えています。



七階節

七階節は、長瀞で行われる縁組みなどの祝いの酒席につきものとして必ず歌われる、自他ともに認める長瀞の祝い唄であります。この唄の由来については、酒田地方で唄われていたのが安政年間船運にともなって入ってきたという説と、楯岡城主甲斐守光直時代(1616~1622)に城中で唄われていたのが長瀞に移ってきた説の二つがあります。「日本民謡大事典」にも北村山郡長瀞村に発生したといわれています。

七階節の唄の踊りも見すごせません。踊りを踊る踊り手のつくりの美々しさが第一眼をひきます。踊りの揃い衣装とてないが、各々ニ枚着(長袖)を着て盛装します。持ち主は花笠(花輪)三つで、一つはおこそ頭布を被った頭頂に付け、二つは両手に持ちます。この姿で唄に合わせ花笠を動かしながら踊るのです。

七階節

この家に 祝えそなえし
松と竹(松と竹)
松と竹とは この家の祝え
松と竹とは この家の祝え

この家に  祝えそなえし
鶴と亀(鶴と亀)
鶴と亀とは この家の祝え

鶴と亀とは この家の祝え



ざっこすくり

雑魚すくりのうたは、うたといっても節まわしがあるわけではありません。それは、唱えでも、語りでも、口説きでもなく、地口バヤシと呼ぶべきこの土地独特のハヤシなのです。踊手一人に多数のハヤシ手がこの踊りをいかにも座興踊りらしくし、また陽気に盛り上げます。踊手の身じたくは、手拭いで頬かむりをし、腰にハケゴをつけ、手にザルかフゴを持つ、これで出来上がりです。踊りは、座興踊の即興性をなるだけ活かして、ハヤシにのり、踊りに浮かれて座敷中をはしゃぎ回ります。これは長瀞村の青年団にうけつがれてきました。

この踊りの由来について。殿様時代にも領民総出の濠の泥さらいはあった。そのとき、濠から獲れた見事な雑魚を殿中に持参して差し上げた。そこでご苦労の盃が下され、盃をいただいた領民がその酒席で踊ったのがこの雑魚すくりであった。

ざっこすくり

(せりふ)
今日は日もいいし 天気もいい
○○がら ムガサリのおづがいもらたげンと
持て行ぐものなんにもない
○○さ行くまでに うらの川さ ざっこせめでも行ってくっか
(ハヤシ)
サア一のあみのかけどごろ
どごらへんが ようがんべ
ここらへんが よがんべ
シーシー ゴフゴフ
シーシー ゴフゴフ
ゆすりあげだら
かがた かがた
がえらぐだまが ごっちゃごちゃ
こんなもんでは まんちゃがね
どんとすでて



長瀞小の児童「想画」

想画とは、児童が日常生活の様々な場面を思い起こして描いた生活画のこと。昭和初期から戦前ごろまで、学校の図画教育の中で農村生活などを主題に描かれた。

長瀞小学校でも、昭和初期に図工主任だった故佐藤文利教諭らが熱心に指導したという。当時、同校のほか島根県の馬木小、三重県の早修小の想画作品が有名だった。長瀞小学校では、佐藤氏の教え子の故井上庫太郎教諭らの尽力により、学校に大切に保存されてきた。写生画、図案、製図などを含め、合わせて925点が現存し、同市の有形文化財に指定されている。保存数では国内で最も多く、作品の質も高い。

作品には、描かれた年月、描いた人の氏名、題名などが記されている。遺骨も写真も残っていない戦死者の遺族が、数年前の展示会で戦死者の作品を発見し、仏壇に供えるために写しを持ち帰ったこともあったという。

同校の卒業生で、作品の保存に尽力してきた長瀞小学校想画を語る会の寒河江文雄さん(65)は、「時代を語る歴史の証言そのものの想画作品を、長瀞の宝として21世紀に伝えたい」と話す。問い合わせは長瀞公民館(0237-42-0301)まで。

(平成12年8月11日 朝日新聞より抜粋)




長瀞 ニの堀を愛する会  住民参加のまちづくり

長瀞・ニの堀を愛する会とは

東根市長瀞地区は、市の中心部より4キロメートルほど北西部にあり、戸数700戸、人口約3000人、周囲約0.5キロ平方メートルで周りが田んぼに囲まれた純農村地域です。地区内には、当時の長瀞城を偲ばせる「ニの堀」と呼ばれる堀が現在も残っており、道路も碁盤の目のように張りめぐり、また、地名にも「陣屋」・「楯」・「お蔵前」など城下町の面 影を数多く残しています。 さて昨年、地区のシンボルであり東根市の歴史的遺産であるこの「ニの堀」を町づくりに生かしていこうと、若い人たちが中心となって『長瀞・ニの堀を愛する会』が発足しました。 町づくりというと、どうしても行政が中心となってしまいがちですが、この会は、行政と住民そして企業が協力し合う。グランドワーク手法による町づくりを目指しています。

長瀞城・ニの堀の歴史と現状

  • 長瀞のお城が有名なわけ
  • 長瀞の城(本当は館)は全国でも有名である。珍しい城だと言われる。本丸は一辺約280mで、堀の幅は、17m。平城(平地に築いた城)としてもかなり大きく、またもっとも大きな特徴は四の丸まであることである。普通 は三の丸までだが、四の丸は中国の築城をまねたもので、これは住民の住居や財産を外敵から守るためだとされている。現在はニの丸だけが水をたたえてのこっているが、古い図面 を見ると四の丸まであったということがわかる。

  • いつ頃、誰がつくったか?
  • 今から750年程前の建長年間に、ここの豪族、西根氏が築城したとも伝えられ、それから約170年ほど経って応永二十一年に、山形城主最上家第四代満家が、古城を修復してそこに隠居した、とも伝えられている。その昔、一の丸は一番深く人の背丈以上あり、敵の侵入を防いでいたそうであるが、明治維新以降民間に払い下げられたときに埋められ、現在は、ニの丸の水堀(通 常「ニの堀」と呼んでいる)が原形をよくとどめている。

おらだな広場づくり

歴史的遺産であるニの堀を環境汚染から守り、町の象徴として将来へ継承していこうという基本理念の元に地域の中での話し合いを行い、ふるさとづくりは地域みんなで考え行動するという基本コンセプトが生まれ、地域として何ができるのか、地域が何を望んでいるのか一つ一つ点検し、できることから取り組んでいきました。

    基本理念

  1. 良好な環境の保全、創造と将来世代への継承
  2. 環境にやさしい、持続的なまちづくり
  3. 自然と共生した潤いあるまちづくり
  4. 環境保全への積極的な取り組み

地区内には公園というものが無く、以前から小さい子どもを持つ母親や、子守りをするお年寄りから、子どもを安心して遊ばせる場所が欲しいという声があり、ニの堀を中心とする地区内の環境整備の一つとして広場づくりを考えたところであり、また今回の事業では、東根市の提唱する『輝き躍動するひがしね創造事業2000』を、長瀞地区地域振興協議会で受け、『長瀞・ニの堀を愛する会』が中心となりながら、広場の企画立案等を行い、『おらだな広場』造成事業を進めることになりました。なお、広場造成作業には広く地域を問わず事業に賛同できる方々を募集し住民手づくりの理念を持ち実施しております。

造成作業

芝生の埴栽を梅雨前の6月4日に行うことを目標に、わたしたちボランティアはテストピース収集からはじめました。3000個余りが必要なため、東根や村山の生コン会社にお願いし日曜日毎に数百個づつ運搬しました。 盛土の終了した箇所からテストピースの埋込みを行い、長瀞小学校の『緑の少年団』5・6年生からご協力を得、芝生・生け垣の埴栽作業の一部を実施したところであります。 6月4日雨天のため、18日に約600平方メートルの芝生貼りを実施しましたが、当日は厳しい暑さで、また翌日からも連日30度前後の暑さとなり朝晩散水作業に追われました。ベンチやバーゴラの木材については、村社の改修のため伐採した松の木や桜の木を譲り受け、皮をはぎ乾燥させて手づくりで完成させました。3オン3バスケットコート・ソーラーシステムによる照明灯なども設置され、公衆トイレ壁面への彩色については、東北芸術工科大学の日原教授ゼミのご協力のもと、ニの堀に配慮したデザインで地域環境に調和したものとなっております。

自然と共生した町づくり

歴史的な遺産『ニの堀』を生かしていこうと、10数年前に数人で4基ほど浮かべた『灯ろう』が、現在では『長瀞ニの堀灯ろう祭り』として、ニの堀を代表する地区の大きな行事となり、毎年盆の13日から15日の3晩、400基ほどの灯ろうが堀の水面 を照らし幻想的な世界をつくり出し、地区内外から大勢の方々よりお越しいただいております。 堀を利用した『ニの堀ざっこ釣り大会』も去る10月9日(体育の日)に、実施しましたが、5回目を数える今回は、遠くは仙台市・福島県からの参加者もおり、500名余りの人たちが、秋の一日釣り糸をたれ『ざっこ釣り』に興じました。

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